〈〈温泉ツイートが大炎上〉突然の芸能界引退、シングルファーザーと結婚・離婚、精神科に緊急入院…1児の母・おかもとまり(33)が世間の声に思うこと〉から続く
広末涼子さんのモノマネで一世を風靡した元タレントのおかもとまりさん。2018年、離婚と同時に精神科病院に3ヶ月間入院していたことをさまざまなメディアで発信し、メンタルケアの大切さを伝えている。
現在、シングルマザーとして仕事と子育ての両立をするおかもとさんに、入院時の様子や芸能界時代の葛藤、ステップファミリーの経験など、さまざまに話を聞いた。(全2回の2回目/最初から読む)
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――おかもとさんは昔からモノマネが得意だったんですか。
おかもとまりさん(以降、おかもと) いえ、まったくやったこともなかったです。もともと、爆笑問題の太田光さんのパートナーの太田光代社長にすごく憧れてたんです。裏方に徹して、自分の信じた才能を世の中に送り出す姿勢に感銘を受けました。
それで、爆笑問題さんが載っていたのでたまたま買った雑誌に「あなたの夢を応援します」と書かれたオーディションが載っていて応募したらそれがアイドル向けのもので、そのまま高校1年生でデビューしたという経緯です。
――アイドル志望ではなかったのに、アイドルになってしまったんですね。
おかもと そうなんです。でも、アイドルといっても何かやりたいことがあったわけではなくて、当時は「『王様のブランチ』のリポーターになりたいです!」と言っていました。
――その目標は達成されたんですか。
おかもと 叶わなかったのですが、のちに、『びしょ濡れレポーターおかもとまり』という、噛んだら水をかけられるお笑いのDVDを出しました(笑)。
――高1からということは、学校と両立しながらアイドル活動を?
おかもと 通信制の学校に通いながら、朝は高崎駅の新幹線のホームでお弁当を売るバイトをして、日中仕事がないときは派遣のバイトもしていました。朝の時間帯は時給がいいんで、よくシフトに入ってたんです。
東京に来て太田プロダクションに入ったあとも、チラシ配りとか看板持ちとか人数を計るバイトとか工場とか、いろいろやりました。
本当にお金がなかったので、原宿で1900円の水着を買って使いまわしたり、エキストラを通じて仲良くなった芹那ちゃんから洋服をもらったりしてなんとかやっていましたね。
――アイドルからモノマネをやりだしたきっかけはなんだったのでしょう。
おかもと 東京の子ってみんなかわいくてスタイルのいい子ばっかりだったので、体と顔じゃ勝てないと思ったんです。そんな時、オーディションでスザンヌさんに声が似てるとか、顔が鳥居みゆきさんに似てると言われていたこともあり、だったらプラスαの武器を用意しようと思って、モノマネを始めました。
――ブレイクのきっかけは、2009年に初出場した石橋貴明さんなどが審査するテレビ番組「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で披露した広末涼子さんのモノマネでした。
おかもと 実は「細かすぎて~」のオーディションは何回も受けていて、スザンヌさんとか鳥居みゆきさんとか松野明美さんとかをやってたんですけど、ずっと落選していました。
そんな時、先輩モノマネ芸人の古賀シュウさんが、「おかもとは髪が短いし広末さんに似てる。それに、タカさんは広末さん好きだからモノマネしたらいいんじゃない?」とアドバイスをくださって。
――たくさん広末さんの映像を見て研究されたそうですが、広末さんのいちばんの魅力はどこだと思いますか。
おかもと やっぱり透明感ですね。薄い水色が似合うイメージというか、あの透明感って生まれ持った才能だと思いました。実際にお会いしたこともあるんですけど、やっぱり光ってるんですよ。
本人からは「どんどんやってください」
――ご本人にお会いされたことあるんですね。
おかもと たまたま数年前に家の近くで広末さんがドラマの撮影をしていてお会いすることができました。すごく遠くの方で撮影されてたんですけど、私を見つけた広末さんが笑顔で走って来てくれて、「モノマネとか全然されないんでどんどんやってください」と言ってくださって。緊張しすぎて写真を撮り忘れたことは一生の不覚です。
――「細かすぎて~」で広末涼子さんのモノマネを披露した時、「これはいける」みたいな手応えはありましたか。
おかもと それがまったくなくて。正直、似てる実感もなく、どうなのかなぁって確信を持てずにいました。どちらかというと私のお姉ちゃんの方が広末さん似で、私は山川恵里佳さんに似てると小学生の時からよく言われてたんです。あ、ちなみに山川さんご本人も公認です(笑)。
そんな感じで手応えもないままいたので、放送後の反響が大きくてビックリしました。
「かわいすぎる女芸人」としてのグラビアのオファーが
おかもと そうですね。「細かすぎて~」の時は「アイドル」の肩書で広末涼子さんのモノマネをしたんですけど、次の日に『週刊プレイボーイ』から「かわいすぎる女芸人」っていうグラビアのオファーが来て、その仕事の後はいつの間にか「芸人」になっていました(笑)。
――突然「芸人」になってしまった戸惑いはありましたか。
おかもと 競艇場の営業ってそこそこお金をいただけるお仕事だったんですけど、競艇の発表待ちでお客さんもネタなんか見てないような感じで、15分の仕事が終わったりするんです。
そういうお仕事の時は、「私、これでお金もらっていいのかな」って罪悪感を持ってしまって。それに、自分はすぐにテレビから消えるタレントだという認識もありました。
新ネタを考えるのもしんどくなって
――芸能界でサバイブするのはむずかしいと感じられていたんですね。
おかもと 当時ローラさんとかが出てきた頃で、こんなにおもしろい子がいる世界で自分は絶対に生き残れないだろうと思いました。だから当時、温泉に入って広末涼子さんのモノマネをするお仕事をもらうことが多かったので、「私の需要はここだ!」と思い、温泉ソムリエの資格を取ったりして。
実際、資格取得後は旅番組やワイドショーの中継コーナーなんかのお仕事が急増したので、資格を取ってよかったなと思いました。
一方で、自分は絶対長続きしないし、長続きさせる気もあまりないようなところもあって。
――タレント以外の道を考えていたのでしょうか。
おかもと 新ネタを考えるのもしんどくなっていましたし、もともと太田光代さんに憧れていたこともあり、制作の仕事をしたかったんです。あと、16歳から働き続けていたので、25歳には結婚して自分の家族を作りたいとも思っていました。
――その思い通り、25歳で結婚。その後は28歳で離婚し、現在はシングルマザーとしてお仕事と子育てを両立されています。お子さんはおかもとさんのお仕事をご存知ですか?
おかもと 「昔ママはアイドルやってお笑い芸人をやってたけど、そこまで人気はなかった」と説明しています。というか、仕事に限らず、離婚のこともなにもかも話してますね。シングルなので、息子には困った時になんでも相談してもらえるような関係でいたいと思っています。
そういえばこの前、私のグラビアのDVDを友だちの前に持ち出して、「ねえねえ、うちのお母さんの教育に悪いの、見る?」ってふざけて友達を笑わせていましたね(笑)。
「生きる道はひとつじゃない」ということを伝えていきたい
――16歳で働きはじめてバイトを重ね、20歳でブレイク。結婚・離婚・精神科病棟への入院など、激動の人生を歩まれていたんだと感じます。
おかもと それは自分でもそう思います(笑)。友人で自らこの世を去ってしまった子がいるんですが、彼女の死をきっかけに、「生きる道はひとつじゃない」ということを伝えていきたいと思い、『青の帰り道』という映画を作りました。制作という夢を叶えることができただけでなく、自分が伝えていきたいメッセージを込めることができました。
私も精神的に病んでしまって、生きてる方が怖いと思い詰めるような経験をしましたが、そのつらい経験も、いつか誰かの役に立つための過程だったのかなって、今は思ってるんです。
写真=佐藤亘/文藝春秋
(小泉 なつみ)